日刊コタノト。

ランニングと「食」を中心とした日々の雑多な記録を綴るノート。

しじみのみそ汁

みそ汁を飲む習慣がありません。

いや、そんなのは現代人なら、さして珍しいことでもないでしょうが、わが家の場合、朝食は和食が基本で、ぼく以外の家族はみな、毎朝みそ汁を飲んでいます。ぼくだけが、なぜか飲みません。理由を改めて考えてみると、よくわからないというか、ちょっと不思議な気もします。習慣とはそーゆうものかな、とも思います。

みそ汁は飲まない、といっても、具材が貝のみそ汁だけは飲みます。たまねぎとか、じゃがいもとか、かぶとか、野菜のみそ汁は飲まないくせに、しじみ (とあさりのときもあります) のみそ汁だけは、何の抵抗もなく飲みます。これも奇妙な習慣ですね。別に、野菜がキライというわけではありません。貝好きではありますが。

しじみのみそ汁を飲むとき、思い出す小説がふたつあります。小説、というよりは、小説の中のほんのいち場面、といった程度の情景です。

ひとつは、伊坂幸太郎さんの『グラスホッパー』です。「蟬」という殺し屋 (殺し屋たちの物語です) が、しじみの砂抜きをするシーンが、好きです。

じっと器を見下ろすと、ぷかっ、ぷかっ、と泡が水面に浮かんできた。しじみの呼吸だ。音もなく殻を開き、息をしている。それを蟬は、一心に見つめる。生きている。いいなあ、と思う。

この、しじみの砂抜きをしている時が、それを眺めている時が、もっとも幸福が感じられた。他の人間がどうなのかは分からないが、しじみの呼吸を眺めている時ほど、穏やかな気分になれることはない。

人も。蟬は時折、思う。人もこうやって、呼吸しているのが泡や煙で見て取れればもう少し、生きている実感があるんじゃねえかな。行き交う人が、口からぷくぷくと呼吸を見せていたら、暴力も振るいにくいだろうな、絶対そうだ、とも思った。俺はこのしじみを食っちまうけど。

via: 伊坂幸太郎グラスホッパー』(角川文庫), P96

この文章はリズムもいいですね。いや、引用文にあやかれば、リズムというよりは「呼吸」というべきでしょうか。いま引用のために改めて書き写してみて、いっそう好きになってしまいました。まあ、ぼくはしじみの砂抜きやったことねえんだけど。

さて、もうひとつは太宰治の「水仙」という短編です。この短編にも、しじみ汁が出てきます。

蜆汁 (しじみじる) がおいしかった。せっせと貝の肉を箸でほじくり出して食べていたら、
「あら」夫人は小さい驚きの声を挙げた。「そんなもの食べて、なんともありません?」無心な質問である。

思わず箸とおわんを取り落としそうだった。この貝は、食べるものではなかったのだ。蜆汁は、ただその汁だけを飲むものらしい。貝は、ダシだ。貧しい者にとっては、この貝の肉だってなかなかおいしいものだが、上流の人たちは、この肉を、たいへん汚いものとして捨てるのだ。なるほど、蜆の肉は、お臍みたいで醜悪だ。僕は、何も返事が出来なかった。無心な驚きの声であっただけに、手痛かった。

via: 太宰治水仙」(新潮文庫『きりぎりす』所収), P259

この短編はたしか高校の教科書に載っていて、はじめて読んだのは国語の授業中だったと思うのですが、この一節に接したときには、思わずペンを取り落としそうでした。

ぼくは別に「上流の人」ではないですが、これを読んで以来、しじみの肉を食べるのをやめました。「お臍みたいで醜悪」というの表現が、強烈です。それに、せっせとほじくり出すのも何だかめんどうくさいです (めんどうくさい食べ物が、苦手です) 。

この「水仙」は、「天才とはなにか」ということを描いたおはなしで、心理サスペンスのような趣きもあって、気に入っています。太宰の短編の中でも、いちばん好きな作品かもしれません。

ところで、なんでこんなことを書いたかといいますと、今日が桜桃忌 (太宰治の誕生日で、遺体が見つかった日) だからです。

何か太宰のことを書きたいな。そうだ、しじみのことを書こう。と思い立って、この「水仙」が入っている『きりぎりす』(新潮文庫) という短編集と、伊坂さんの『グラスホッパー』を、本棚から引っ張り出してきて、並べてみたところ、奇妙な偶然に気づき、とても驚きました。

「きりぎりす」って、英語で「グラスホッパー (grasshopper) 」じゃん。